Column

コラム

デビュタント

「先生、今日はハイヒールを持って来たので、歩き方を教えて下さい。」二十歳を過ぎたばかりの彼女は、何年か前に歯列矯正治療を終えています。当時はまだ高校生でしたが、「矯正を終わる頃には、ハイヒールを履いてもきれいに歩けるようになっておきましょうね。」と言ってあったのを覚えていてくれたのでしょう。

 

いつも歩行を見ている診療室の一画に、緋毛既ならぬ新聞紙を敷いて、今日は真新しいハイヒールで歩きます。歩き方、そうまずくはないけれど、洗練度がもう一つという状態でした。ダイナミズムとしては、仙骨まわりの硬さがスムーズな動きの妨げになっていたので、まず、頭鍼(頭に鍼を剌す方法)をして身体の癖をとってから、歩き方のコツを伝授します。といっても、取り立てて変わったことをする訳でもありません。基本をより鮮明に表現するだけです。

 

たとえば、ハイヒールを履いたお嬢さんが、曲がったままの膝で、ぴょこぴょこ歩いているのを見かける事があります。お尻が下がってどうにも歩きにくそうです。履きなれないためという事情も手伝っているのでしょうが、股関節の過伸展が起こっていないのが特徴です。その結果、常に膝が胴より前にあるのです。股関節の過伸展というのは、人の歩行の大きな特徴のひとつで、“大腿が胴より後ろ側へ位置する時期のあること”で、“一方の脚が前へ出て歩くとき、他方の脚は胴より後ろへのこる。このとき股関節は180度以上に伸展する”(「サルとヒトと」木村賛,サイエンス社)ことをいいます。図をご覧いただくと、黒く色付けされた右足が、振り子のように前後しているのがご覧頂けると思います。このとき、前後に振れる角度が同じ位であるのが特徴です。咬み合わせが狂っていて、重心のずれた方では、脚が前に振り出される角度より、蹴り出しで後ろに振れる角度の方が少ない場合が圧倒的です。ですから、ハイヒールを履いて上手に歩けるかという視点からは、実は股関節の過伸展という、ヒトの歩行の基本が整っているかが問われていることになるのです。

ハイヒールを履いた場合の筋肉の活動状況を、筋電図で見てみると、太ももの前側の筋肉(大腿直筋)の活動が、特有ということです。膝より下では、ふくらはぎとして触れることのできる筋肉(ひふく筋)、長ひ骨筋の活動が時間的にも長く、量的にも多くなっているのが特徴です。これらは、爪先寄り(尖足位)で体重を支持するに当たって、足および足関節を固定するのに役立っていると考えられています(整形外科からみた歩行解析論文集 鈴木良平、てらぺいあ)。ヒールは、ある程度蹴り出しに役立ってもいますが、それもIcm~3cm位までのことで、それ以上になると筋肉疲労を増加させることになるだろうと言われています。

 

それでは、ハイヒールで歩くコツを伝授いたしましょう。まず、足を前に出す時は、爪先よりも膝から出すつもりで歩きます。この時、膝はほぼ床と平行に移動させ、ぴょこぴょこ上げません。膝が身体の前に出ると、重心も前へ移動しますから、身体が倒れないよう、自動的に前の足を床に着く事になります。ハイヒールの時といえども、歩行の基本であるかかとから接地することには変わりありません。後ろに残る蹴り出しの脚の膝は、平素より少し意識して伸ばします。平たい靴に比べると、足の裏は不安定になりますので、その分、接地の幅を体の中心に寄せておく方が、重心の左右的なブレが少なくて安定します。

 

ハイヒールで歩くというのは、平均台の上を歩くのとある意味で似ています。私たちは、いつも平均台を歩いている訳ではないけれど、平均台にあがってもすらすらと歩けるようなバランスを持っていることは、普段平地を歩いている時でも、バランスが良いということです。それと同様、ハイヒールをいつも履いている訳ではないけれど、そしていつも履くことが身体に対して良いはずは無いけれど、ハイヒールを履いてもきれいに歩けるということは、平素の歩行の基本が整っているということです。私の手がけた患者さんが、お友達の結婚式や(御自身の結婚式であれば尚のこと)、ビジネスのここ一番の場面で、さっそうとヒールのある靴を履きこなしてくれる姿を想像することは、私にとって大変魅力的な治療上のイメージのひとつです。

 

“マイ フェア レディー”という映画をご記憶の方も多いでしょう。あの中で、オードリー・ヘップバーン扮するイライザが素敵なドレスに身を包み、社交界にデビューする場面があります。貴族の世界華やかなりし頃には、お母様方は、こぞって令嬢の美しさを引き立たせるデビュタント・ドレスをあつらえ、社交界に送り出したことでしょう。私も、女性としての人生にデビューしてゆく彼女らのために、健やかな美しさを表現する姿勢や歩き方をデビュタントのはなむけとして贈りたいと願っています。

048-549-0190
完全予約制
ご来院の際はご予約を
診療時間
9時-13時/14時-18時
休診日
木曜・日曜・祝日