ある日のこと、夫の定年を機に隣町に家を建てた、という方が来院されました。

「転勤の多い生活でしたから、通う歯医者さんもその都度かわっておりました。ようやく住まいも落ち着きましたので、歯を全体的に治したいと思ってうかがいました」とのことでした。お口の中を拝見しますと、義歯やかぶせ物の状態からも、部分的な治療を重ねてこられた経緯がうかがわれました。

このような状況は、そう珍しいことではありません。引越しの先々で、不安な気持ちで歯科医院を訪れ、問題の起きている歯だけを治療する。その繰り返しで、全体の構想や長期的な展望を持った治療が思うにまかせなかったのです。ですから、人生の節目に歯をしっかりと治したいというご要望がありますと、口の中全体を視野に入れた治療計画を立て、その後のメンテナンスを提案させていただくことにしています。

治療を始めるにあたっては、今どのように困っておられるのか、治療後にはどのように過ごしたいかを伺います。口の中の状況は同じようであったとしても、不都合と感じている内容は人によって異なるからです。この方は、不自由なく食事が出来ることを要望の第一に挙げられました。次に、前方に張り出してしまった前歯の印象を回復したいとのことでした。確かに、かぶせもの数本が厚く大きく、この方の印象にはそぐわないように感じました。歯の治療を重ねているうちに、顔立ちが不本意に変わってしまう事があるのは残念なことです。

そこで、天然の前歯があった頃の写真をお借りすることにしました。咬み合わせのバランス、前歯の形態、唇から見える前歯の様子など、食事のしやすさやきれいさを回復する際の参考になるからです。

こうして治療が始まり、いよいよ最後の装置が入って何日かたった頃です。「何か不具合な点はありませんでしたか」とうかがいますと、食事が普通にできるようになっただけでなく、「ある朝、鏡を見ましたら、なつかしい顔が映っていました」と話すお顔が柔らかく微笑んでいました。一瞬、朝の光景がイメージに浮かび、私の心の中に喜びが静かに広がっていくのを感じました。

歯科医療をとおしてご自分の顔を取り戻すことは、自分らしく生きることにつながります。