「街の歯医者さん」の窓には、いつも時代の風がそよいでいます。ひと昔前ならば、矯正治療を受けたい、或いは受けさせたいと望む方は、ほぼ全員、見た目の美しさを求めてのことでした。けれど最近では、咬み合せが直接健康にかかわるということを知り、どのような矯正治療を受けるべきかに関心を持ち、相談に見える方もでてきました。そんな時、まず申し上げるのが、「どうぞ出来る限り、小臼歯を抜かない矯正治療を受けてください」ということです。
歯は、一本一本大切な役割をその形に表して、順序良く口の中に並び、全体として体と調和した機能を営んでいるのです。中間の歯を抜いてしまうことは、たとえばピアノの鍵盤のファのあたりを抜き取ってしまうのに似ています。白い鍵盤をひとつ抜き取って間をつめてみても、もう、前と同じ音階を奏でることは出来ないでしょう。
前歯から奥歯へ……。歯の形の連続性には、進化という生命の長い歴史が秘められています。そして、実際のところ、歯並びの美しさは、その機能と調和した形態の中にあるように思います。
私たち歯科医は、ヒトの歯の一生を見届けているのが日常です。生後6ヵ月、初めての歯が下顎の正面に顔を出してから、乳歯が生え揃い、小学生で次々と生え代わってゆく姿には、いかにも生命の躍動感を感じます。しかし一方で、健やかとは言い難いさまざまな歯並びの問題が、目の前で繰り広げられる状況に立ち会っているというのも実感です。
大きなスケールで見れば、それは、進化の過程の中で小さくなった顎骨に、歯が、押しくらまんじゅう状態でひしめき合って生えようとする所から生じる、構造の歪みです。しかし、現在あまりに急激に進む歯列の不正・咬み合せの狂いは、衣食住の広範囲に及ぶ生活習慣が、大きな要因として関わっていることを抜きにしては対処できません。そこには、虫歯さえ作らなければ、口腔内の健やかさが保たれるということでは済まされない、現代性が潜んでいます。歯の大きさと顎の大きさのアンバランスは、不正咬合の原因であるに止まりません。二次的に齲蝕や歯癩病の原因となることが、疫学的調査からも裏付けられています(『咬合の小進化と歯科疾患』井上直彦、伊藤学而、亀谷哲也・医歯薬出版)。さらに現在では、咬合異常関連症候群(石川達也)として、全身とのかかわりについての関心も高まっています。
歯並びの不正は、当然のことながら咀嚼機能の低下に直結しています。咀嚼という機能を営むことが出来る私たちの歯の仕組みには、歯の進化のプロセスが込められています。“歯は、無顎類と大部分の鳥類を除くほとんどの脊椎動物の顎上に存在しているが、その機能と構造は進化の中でさまざまに変化して”きています(『歯の比較解剖学』後藤仁敏、大泰司紀之編・医歯薬出版)。図Ⅰは、脊椎動物の進化と歯の進化とを対応させて示しています。長いこと、歯はどれも同じ形をして(同形歯性)その役目は食べ物を捉えるだけ(捕食器官)でした。捉えられた獲物は鵜呑みにされたのです。やがて、切歯・犬歯・小臼歯・大臼歯というバリエーションを持つに至り(異形歯性)それらが意味のある連続性を持って並ぶことで、ひとつのまとまったシステムとして機能して咀嚼ができるようになった(咀嚼器官)のです。
咬み合せ治療をしていると、個々の歯の形態と、歯並びの中に込められた機能の意味の深さに驚かされます。正常な歯列では、下顎歯列は上顎歯列の内側にすっぽり納まっています。上下の歯を咬み合せたまま下顎を前に動かしてみて下さい。下顎の動きは上顎前歯によって誘導されます。今度は顎を横にずらしてみます。犬歯同士が滑りあって、下顎の動きを誘導します。それでは、顎関節のトラブルにつながり易い、下顎が後ろにずれる際の誘導は、どの歯か担当しているのでしょう。それが上下顎の第一小臼歯同士の滑りあいという訳です。形態学的に見ても、上顎第一小臼歯は、手前にある歯(犬歯)と接する面が、“く”の字のようにへこんでおり、他の歯のそれと逆になっています。この形態上の特徴を以って、上顎第一小臼歯は、後ろ向きの力(下顎が後退する際にかかる力)に対抗することの出来る唯一つの歯としての、重要な機能を果たしているのです。第一小臼歯が、顎関節を護る咬合のキー・ティーズといわれる所以です(図Ⅱ)。
歯と顎の大きさの不調和は、今もなお急速に進んでいます。歯列矯正治療は、そのような状況に対抗し得る、極めて現代性の強い歯科医療の分野であるということが出来るでしょう。幸いなことに、近年、歯列矯正治療も、咬み合せ治療の手だてとして用いることが出来る診断方法や技術が、編み出されるに至っています。その際のポイントの一つが、第一小臼歯を咬合の中でどう位置づけるかにかかっているという訳です。
歯列矯正治療が、咬み合せ治療の手段として明確に位置づけられるようになったことによって、歯列矯正治療は、より人間らしく生きることのお手伝い”(佐藤貞雄)としての医療技術になったといえるでしょう。