Column

コラム

なつかしい顔

ある日のこと、ご主人が定年を迎えられたのを機に、私共の診療室の隣町に住まいを定めた方が、来院なさいました。「転勤の多い生活でしたから、通う歯医者さんもその都度替わっておりました。ようやく住まいも落ち着きましたので、歯を全体的に治したいと思ってうかがいました」とのことでした。お口の中を拝見いたしますと、義歯やかぶせ物の状態からも、全体の構想に基づいた治療ではなく、部分部分の治療を重ねてこられた経過がうかがわれました。

 

このような状況は、そう珍しいことではありません。引越しの先々で、不安な気持ちで歯科医院を訪れ、時間的な制約からも傷んだところの治療にとどまらざるをえず、長期的な展望を持った治療やメンテナンスが思うに任せなかったのです。やはりご主人の転勤が多かったという奥様方からも、同じようなお話をうかがっておりますし、私自身も、転勤を控えた方で、とりあえずここだけといった治療をせざるを得なかった場面を経験しております。ですから、この方のように、人生の節目に歯をしっかりと治したいというご要望がありますと、口の中全体を視野に入れた治療計画を立て。その後のメンテナンスを提案させていただくことにしています。

 

治療を始めるにあたって、何を一番に望んでおられるのかをじっくり伺いました。

同じようなお口の中の状態であったとしても、特に不都合と感じていらっしゃる内容ぱそれぞれ異なっているからです。

 

この方は、不自由なく食事が出来るようになることを第一に挙げられました。食事は健康の基本ですからこのご要望は当然のことですが、義歯が大きくなるにしたがい、何でも食べられるという条件が満たされずに不都合を抱えていらっしゃる方が、思いのほか多いのが現状です。

 

次に、前歯が元のご自身の歯よりも前に張り出してしまったのを回復したいという御要望がありました。歯周病の影響もあってのことですが、前歯のかぶせものの数本が、確かにこの方の全体的な印象にはそぐわないように感じました。歯の治療を重ねている内に、顔の雰囲気が不本意に変わってしまうというのは、何と残念なことでしょう。そこで、ご自身の歯があった時のお写真をお借りし前歯の形態、唇の張り具合、歯の見える量など、出来るだけもともとのお顔の雰囲気に回復することを治療方針に加えました。せっかくここまで考慮するのですから、いかにも入れ歯が入っていますというような仕上がりをさけるために、上顎には、数本残っていた歯に特別な細工をし、歯につかまるためのバネのない義歯をデザインしました。

 

こうして治療が始まり、いよいよ新しい装置が入ってから、何日後のことです。何か不具合な点はありませんでしたかとうかがいますと、「安心して笑えるようになりました」「これまでは笑っても唇の端が真っ直ぐでしたが、斜め上に上がるようになりました]「顔が柔らかくなったように感じます」と喜んでくださいました。

 

そして、「朝起きて鏡を見ましたら、なつかしい顔でした。」と語られました。

 

私は、治療を通して本来のその方らしいお顔を取り戻すことに熱心であると、我ながら思いますが、それはその人らしい顔という中に、咀嚼能力や運動機能、美しさに関わる重要な要件が含まれているから、というばかりではありません。本来の自分の顔を取り戻すことは、その人らしく生きることにつながる。臨床経験を通じて、そう感じているからです。

 

私か治療の中で意図し目指したものを、「なつかしい顔」になったと端的に表現していただき、治療者冥利に尽きるというのでしょうか、こちらまで癒される思いがいたしました。

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