このところ、私の興味は犬歯に集中しています。犬歯が、下顎の横の動きをサポートしてくれる働きを持っている、顎運動にとって重要な歯であることはいうまでもありませんが、咬み合わせ治療を考えていく上で、この歯は特別な位置を占めているということをますます感じるからです。
今日などは、診療の終わった後、掃除に忙しく立ち働くスタッフの一人を呼び寄せて、ちょっとこちらに来て歩いて見せて。左右の犬歯で顎を滑らせながらね。彼女らの咬み合わせの特徴は私の頭に入っているので、声をかけられたのは、犬歯のすべり合わせが左右ほぼ同じで、しかもはっきりとしているパターンのスタッフです。私か突然こんなことを言い出すことについては、皆心得たもので、怪計な顔もせず、ちょっと照れちゃう、などといいながら歩いてくれています。
右足を出す時は顎を右に、左足を出す時は顎を左に動かしながらやってみて。そうそう、その感じ覚えておいてね。今度は反対に。右足を出す時に顎を左に、左足を出す時は顎を右に寄せて歩いてね。ねえ、どっちが歩きやすい。出す足と同じ方に顎を寄せた方が歩き易いです。そうよね、そうでしょ、と、私はご機嫌です。このことは、自分ではすでに確かめてあって、やはり同じ結果だったからです。
顎運動が、腰の動きと連動していることは、こんな簡単な実験でも判りますが、私の最近の観察によれば、骨盤の動きと下顎運動とは、単に関連しているだけではなく、どうやら、正常な動きの中では、犬歯同士の滑り合いによってサポートされる顎運動と骨盤の動きとは、相似であるらしいのです。
骨盤の動きは、歩行に際して片足になった時に反対側か高くなり、その位置エネルギーを利用して、もう一方の脚を振り出しています。そのことを左右交互に繰り返すことによって、骨盤は、正しい歩行では、捻れるというより、こねているという感じの動きをします。そして、犬歯によって適切にガイドされた下顎運動も、これによく似ているようだというのが、最近の私の印象です。
それは、“メビウスの帯”という図形を思い起こさせます。メビウスの帯というのは、表裏のない曲面(図1)で、さらに左回りと右回りの区別のつけられない曲面です。その性質を初めて指摘した19世紀前半のドイツの数学者、天文学者であるA.Fメビウスにちなんでそのように呼ばれている図形で、不思議な性質を持つ割には簡単に作ることができます。1本のテープを用意して、途中を180度だけ捻って、表と裏を張り合わせて輪にするだけです。この帯の上をあなたが歩いていったとすると、一周した時のあなたは初めの側と反対の側にいて、しかも初めとは逆に立っていることになります。
さて、このメビウス帯の中心線上の1点に、左回りの円を描いて、中心線上を移動させて元の点にまで戻してみると、どうなるでしょうか。何処で変わってしまったのか、円は右回りについているのです(図2)。私たちの左右の手が正面で向かい合ったり、股関節の回転が左右向かい合わせであるみたいに。
私たちは、二本の足で立ち、これを交互に使って歩くために、体の構造を捻りに捻ってリフォームしてきました。捻れに捻れた体をさらに捻って動かして移動するのが、われわれヒトの直立二足歩行というものですが、そのための変化の最たるものは、下肢であり、それに連動する骨盤です。化石を分析する時に、膝や骨盤の形態が、直立二足歩行をしていたかどうかの鑑別の要になっていることは、よく知られているところです。
一方、咬合の変化の歴史の中では、犬歯がそれに対応しています。サルからヒトヘの犬歯の変化は、他の歯の変化と比べて劇的です。直立二足歩行をするようになったその時から、大歯は突如として、牙として長く突き出して上下で挟まりあうことをやめて、へらのような前歯の仲間に代わったのです。
そして今、へら型になった犬歯の曲面は、左右の顎運動をサポートし、その動きは骨盤の動きと運動して歩行に関与しています。そればかりか、顎運動と骨盤の動きが奇妙なまでに似ていることを思う時、咬合とヒトの体を考えていく上に、犬歯はナゾと魅力にあふれた鍵という気がしてなりません。