ある日、歯列矯正治療で通院中の患者さんから、お母様の口が開きにくくなっていると聞かされて、思わず「あの方に限って、口が開かなくなるなど考えられない」と申し上げました。矯正治療を始めるにあたって、ゴールとすべき歯列の参考にと、骨格パターンが似ていたその方の歯形をとらせて頂いたことがあるのです。その時の歯列の見事さが、印象的でした。
女性にしては珍しく、というよりは現代人にしては珍しくといってもよい程にゆとりのある顎の骨で、その咬み合わせはダイナミックにして緻密。上顎に対する下顎の位置をみても申し分なければ、歯列弓の幅をとっても、体が安定して機能するのにちょうど良い頃あい。更には親知らずまでが、きちんと咬み合っていました。そんな方の口が開かなくなるとしたら、歯科医は咬み合わせ治療をするときに、どのような状態を目指せばよいでしょう?
「スキーで一年位前にケガをしました。とてもファイトのある人なのでリハビリも熱心にこなし、その甲斐あって最近では長い距離を歩けるようになっています。ところが最近になって、口を開けると左の顎関節のところで音がしたり、痛がったりしているみたいなんです。私の体験からすると、歯並びと一緒に体のバランスを治して頭痛や体の痛みなどが治ったので、体と顎は関係している訳だから、母の場合、体の方から顎に来ているのではないかと思っています。母に“先生の所に行って診てもらったら”と勧めているのですがどうでしょうか?]と、ここまで聞き、なるほど、そういうことであったかと事情が分かり、内心、膝をたたいたことでした。
来院したお母さまは、左膝に装具をつけてはいるものの、杖もつかず入ってこられました。お顔を拝見すると、確かに顔立ちの変化が見られます。鼻筋は左に曲がって、目の大きさにも左右に差が生じ、左目が細くなっていました。顔の大きさも右と左とで大きさが違っており、左の顎関節あたりを中心に緊張感が強く、そのあたりに向かって縮んでいるようでした。以前のこの方を知らず、また、その見事な口腔内状態を知らず、今初めてお目にかかったとしたら、“咬み合わせに何か問題があるに違いない”と、まずは思ったことでしょう。
歩いていただいて判かりました。左足を床に着く毎に、あろうことか、カカトからの衝撃が左顎関節を直撃していたのです。左ひざをかばいつつ歩行のトレーニングをする内に、左足のカカトから太ももの付け根までが一本の棒状態になり、本来なら足首関節や膝関節の連動によって和らげられるはずのカカトからの衝撃が、歯を食いしばった状態の左顎関節に伝わっていったのです。
このような非生理的な形態や動きの特徴は、普段ご自身では気づきにくいものですが、ここがこうと説明すると、たいていはすぐに理解して下さいます。この方も鏡の前に案内すると、すぐにご自身の顔の変化がわかり、“指摘されるまで少しも気付きませんでしだと驚いておられました。歩く時の衝撃には、そのような観察にかけては先輩であるお嬢さんが、“あら、本当だわ”と気付きました。
このような方の場合、すでに歪んでしまった顔面の筋肉バランスを整えるために、口腔内にはプラスチックのスプリントを使います。しかし、咬み合わせに原因がある訳ではないので、治療のほとんどは、原因である体のリハビリに費やされることになります。痛めた膝の靭帯にレーザーを用いたり、鍼治療や低周波療法を組み合わせながら、体全体の運動機能が本来のシステムを取り戻すことができるようにサポートしていくのです。
咬み合わせの影響で顎が狂い、体にまでさまざまな症状が表れることは、今では一般の方々にもよく知られるところとなりました。けれども、その反対のルート、すなわち、体のアンバランスが顎に影響して、咬合に起因した症状とよく似た症状を呈することがあることは、それ程知られてはいないように思います。確かに、この方のように咬合には問題がなく、ケガによって咬合異常にも似た症状が出るケースは、全体から見るとわずかです。が、咬み合わせの不具合と体の不調を抱えて来院なさる患者さんの中で、ケガや手術によって体のバランスに好ましくない変化が起こり、その影響が今もなお無視できないほどに強く作用していると思われる方は、決して珍しくありません。それらは一見、咬合異常に起因した病態の一部であるように見えますが、由来の異なるものです。体に対して施術し、その回復に努めないと、咬み合わせを改善することによってのみでは好ましい調和状態に達することは困難です。
ケガをした、捻挫をしたという体験は、思いのほか根強く体に残って、先々に思いもかけない影を落とします。ケガをなさったなら、傷が治った、痛みが消えたというようなことで済ませてしまわず、運動機能が元通りにもどっているか、ぜひ見届けて欲しいものと思います。