上下の歯の咬み合わせの事を、私たち歯科医は“咬合”といいます。
咬合を診るときは、咬合をデッサンするつもりで眺める事を、お勧めしたいと思います。たとえば、ギリシヤ彫刻の胸像をデッサンするとしたら、どうするでしょう。いきなり、目から、耳から、描きはじめるでしょうか。やはり、大まかなバランスから入り、輪郭や主な造作について位置を決め、最後に各部分を描くでしょう。咬合もそのようにチェックしてゆくと、わかりやすいのです。
まずは“顎位”。これは、一般的には、上顎に対して下顎がどのような位置関係にあるかをさします。次は“歯並び(歯列)のアウトライン”を診ます。歯並びのアーチが左右対称であるか。ちょっと専門的になりますが、スピー・カーブおよびウィルソン・カーブが適切であるか、といったこともこの項目に入ります。その上で最後に、“上下の個々の歯がどのように接触するか(接触関係)”を診ます。この時には、咬み合わせて動きを止めた時の状態ばかりでなく、上下の歯を接触させたまま前後左右に下顎をずらす動きの中でも接触状態をチェックします。
もう少し具体的に見てゆくことに致しましょう。
Ⅰ・一に顎位 二に顎位
顎位のずれは、頭位のずれを起こしますので、身体全体の重心の位置に、ダイレクトに関係します。重心のずれは、全身の力学系にアンバランスをきたします。たとえば左右にずれが生じると、左右の足にかかる負担に差が生じます。前後的な位置関係の狂いも、そのまま重心の前後バランスに反映します。その他に、咬合高径(咬み合わせの高さ)の不足も内転筋のゆるみを引き起こしますので、歩行の快活さが失われてしまいます。
Ⅱ・歯列のアウトラインをつくる三つのアーチのバランスはどうか
①左右の対称性(図Ⅰ)……歯列弓の幅は、左右の足のスタンスに関係します。歯列の幅が狭いと歩行においても、右足と左足の足跡の左右幅が狭くなります。腕なども身体に寄せ付けて、どこか肩身が狭いといった風情になることが多いようです。反対に広すぎると、足跡の幅も広くなりすぎて、片足になる毎に、重心が右に行ったり左に行ったりするので、身体が横に振れてしまいます。多くの方では、歯列弓の右と左とで幅が違っているので、歩行もいろいろな様相を呈しています。
②スピー・カーブ(図Ⅱ)……歩行のプロセスで、後ろから前へ重心を移す時の、股関節の動きのスムーズさに関わります。カーブの曲率の大小は、それぞれの人の関節の曲率と相関していますので、一定ではありません。大きく分けると、四角張った顔で、歯列弓の幅の広い人のスピー・カーブはゆるやかで、細おもてで中高の顔立ちの人のスピー・カーブはきつい傾向があります。適切な曲率は、かかとが接地し、親指の付け根で蹴り出すまでの股関節の動きをスムーズにするので、滑らかな重心移動をもたらします。曲率が、左右で大きく差のある場合や、特に、カーブの凹凸関係が逆(上顎で上に凸)である場合には、股関節の動きに異常が目立ちます。
③ウィルソン・カーブ(図Ⅲ)……適切なカーブは、下顎を横にずらした時に、犬歯による絶妙な側方ガイドをもたらします。そのような犬歯の働きは、歩行においては、片足で支えるステージでの、腰の回転に関係します。腰の回転は、肩の回転と逆向きになっていますが、犬歯が適切に機能している側では、腰の回転は、肩の回転とうまく連動して、一本足で体を支える時に、重心を中心に戻す働きをしています。
Ⅲ・個々の歯の接触関係は最後にチェック
歯を咬み合わせた時に、上下の歯が接触するポイントを調べます。一本の歯の中でも、どの部分が触れ合うかによって、身体の力学バランスは変わります。これは、歩行でみると、足の裏のどの部分で体重を支えるようになるかに対応しています。一本一本の歯の接触関係が、粒ぞろいといったバランスの良さで与えられている場合には、足の“あおり”が整います。“あおり”というのは体重を支える力が、着地した踵から小指側に廻り、蹴り出しのために親指の付け根に移る時に起こる、ヒトに特徴的な足の動きのことで、膝や足首の複雑な回旋運動と連動しあう、たいへん繊細なシステムです。これによって、立って歩くという不安定なバランスにもかかわらず、重心が常に体の中心へともどされるのですから、洗練された直立二足歩行のためには、この“あおり”を整えなければなりません。
ただし、これはとても大切なことですが、咬合の再構成においては、Ⅰ・Ⅱが、優先されるべきものである事を忘れてはなりません。その理由は、たとえば、顎位が狂ったままの状態で、個々の歯の接触関係を確立した咬合を作ったりすると、重心が狂ったままの歪んだ鋳型に、生体を押し込める事になる可能性があるからです。咬合治療する場合、各要素の優先順位を守ることは、大変に重要なことであると思われます。
“咬合を診る時には、咬合を各要素に分け、順序立てて分析する必要がある”と考えるようになった根拠は何処にあるかといいますと、咬合を直立二足歩行との関係において診断してきたためです。咬み合わせを整えては、それによって起こる歩行の変化を観察する事を、何年にもわたって続けてきました。その結果、私の観察の中に、咬合のどの要素を整えたら、歩行のどの要素が整うかという視点が生まれました。反対に、歩行の要素を整えると、対応する咬み合せの要素が変わることも知りました。私の中での最も大きな発見である、“歩行の基本的なシステムが整うように咬合を再構築すると、健康が回復してゆく”という治療の流れもつかみました。そこで、咬合治療にさいしては、咬合と直立二足歩行の両面からの療法を併行しておこなうようになりました。
診療を通して新しいことを発見して行く日々は、とても知的好奇心を刺激される日々でした。診療室で患者さんを診療する中で発見した事の意味を、書物にあたって調べます。書物によって調べた事から、新しいヒントを得て、また患者さんの前に立つ事の繰り返しです。先に述べた咬合の診査の順序は、そのような臨床の日々の中で見出した、歩行に対する影響力の大きい要素から問題を洗い出してゆくための診断法です。