Column

コラム

笑顔のつぼ

“Say thank you with smile,” (ありがとうって、笑顔で言うのよ。)

 

これは友人が、アメリカの家庭で見かけた光景として伝えてくれたことです。お母さんが、まだ小さな坊やにちょっとしたことをしてあげた時に、そう言いきかせたというのです。

 

笑いは感情表現であると同時に、笑顔には、確かに社会的な相互作用としての働きがあります。友人の伝えてくれた見聞が、アメリカの家庭における一般的な光景かどうかはわかりませんが、“笑顔をコミュニケーションの手だてとして、しつけの中に取り入れている”ということに驚きました。

 

そんなことが影響しているのかもしれません。私は、咬み合わせ治療の途中に、笑顔のレッスンを取り入れています。というのも、咬み合わせが狂ってしまうと、咬筋や側頭筋に代表される咀嚼筋群に余計な力がこもってしまい、その結果、複雑に交差して繊細な動きを以って表情を創る、顔面の筋肉である表情筋が、充分に働かなくなっているからです。

 

顎の位置や運動のバランスを司る咀嚼筋は三叉神経が、表情筋の動きは顔面神経が、それぞれ別に担当しています。そこで、顎位の狂いが整い咀嚼筋のコリがほぐれた頃合いを見計らって、表情を司る顔面のポイントに低周波をかけます。その時に、とっておきのポイントがあるのです。まず、まっすぐ前を見て、瞳の中心から真下に下り、頬骨を超えた窪みのところ。ここは口角を引き上げる筋肉が集まっているところで、顔面神経の頬骨枝が動きの司令を出しています。目尻のあたりも、同じく頬骨枝が担当しています。ですからここを刺激すると、口元だけでなく目元もほころんで、笑顔が明るく優しく広がるようになるのです。

 

私たちが顔と呼んでいる部分は、専門的に言うと頭蓋の一部です。頭蓋というのは首から上ですね。そして顔は、脳頭蓋と顔面頭蓋とで出来ています。脳頭蓋というのは脳を入れておく所ですから、大半は髪の生えているところで、顔の中では額がこれにあたります。顔面頭蓋というのは、それより下の部分です。チンパンジーと現代人が見詰め合っているような、図(I)をご覧ください。チンパンジーと現代人の顔を比べると、現代人では額が広くて、チンパンジーでは、物を噛むための歯を含む上下の顎や鼻面が発達しているのがわかります。このことは、頭蓋の進化における二つの傾向を示しています。ひとつは、脳の発達によって脳頭蓋が大きくなったこと、もう一つは、咀嚼筋の退縮にともなって顎顔面頭蓋が小ぶりになったことです。ゴリラとおぼしき顔と現代人の顔を正面から描いた図(Ⅱ)に、両者の動きが模式的に表されています。

 

顔は、進化によって変貌をとげています。咬み合わせも、それと同調して変化してきました。そこで、進化による変化をふまえて咬み合わせを整えると、口元・顎まわりはやわらぎ、眉聞から額にかけて晴れ晴れとした表情になります。そこで私は、“進化の流れに沿ったひとの顔になるような咬み合わせを、ひとりひとりのお口の中に再構築することも、治療目標のひとつにしています。

 

“顔”というと、私は、斑鳩の里にある中宮寺の弥勒菩薩像を思い浮かべます。ゆるく印を結んだ右の手を、かすかにはころんだ口元に寄せています。目元は、うっすらと閉じていてさえ微笑んでいる事が感じられる、和らいだ表情をしています。何か考え事をなさっておられるようなそのお顔の、脳頭蓋に相当する額が知性を表し、顔面頭蓋の表情が心のありようを表すとするなら、そこには、進化の最高峰にある“ひとの顔”の果たし得る、可能性としての“知と愛の調和”が、見事に表現されているように思うのです。

 

できることならお口を開けていただいて、どのような咬み合わせをしておられるのか、つぶさに観察をさせていただきたいものだと、お顔を拝する度に思います。

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