診療室を訪れる方の中で、アゴに関する症状の改善を希望なさる方は、年々増えているように思います。
アゴに関するといっても、その症状はさまざまです。“ある朝、突然、口が開かなくなった”“食事をすると、片方のアゴが決まって痛い”“大きな口を開けると音がする”といったように、顎関節付近に症状のある方ばかりではありません。“頭痛がする”“肩凝りがひどい”“耳鳴りがする”などの症状で、他の科を受診したことが、来院のきっかけになった方もいらっしゃいます。検査の結果、対象とする器官に異常が認められないことから、顎関節症の疑いがあるとして、歯科の受診をすすめられたという方です。また、最近では、アゴと全身との関わりが、マスコミでも頻繁に取り上げられているようで、マスコミからの情報を得て、全身症状の改善を求めておいでになることもあります。
今日も、左アゴの痛みを抱えて来院なさった方がありました。その方がおっしゃるところによれば、これまでにも、時々、口を開けにくい時があったけれど、自己流の手の添え方で動きをサポートして、切りぬけてこられたのだそうです。ところが、最近になって、口を開けようとすると痛みが走り、いつもの方法を試しても功を奏さず、慌てて整形外科を受診したところ、歯科の受診を勧められたとのことでした。左手の中指で、顎関節部に触れ、「こうして開こうとすると、カクンと音がするのです」と、不安そうです。
ご様子をお話しいただくうちに、「どうしてアゴが痛くなるのですか」と、たずねられました。率直にして素朴な質問というのは、却って、説明するのが難しいものです。でも、そんな事こそ、誰もが知りたい事柄なのかもしれません。
私たちの体の動きをつかさどる筋肉や骨格系は、基本的に左右対称の構造になっています。下顎骨の形態も、その例外ではありません。図Ⅰをご覧ください。私たちの下顎骨は、左右対称にL字型に立ち上がった形をしています。一番端の丸くなった部分が関節頭です。この凸型と、耳の前にある側頭骨関節窩の凹型が、関節円板と呼ばれる繊維性の組織を介在して向かい合っています。そして、食物を噛む時もおしゃべりをしている時も、唾液や食物を飲み込んでいる時も、左右が連動しながら円滑な動きを営んでいるのです。それに対して、咬み合せはどうでしょう。これも正しくは左右対称に並ぶべきところですが、現実の歯並びは、大変なバリエーションを呈しています。
歯並びが乱れると、下顎骨は、上下の歯がいやな当たり方をするところを避けて咬み合うように、位置がずれてしまいます。顎関節は、関節の中でも、極めて可動域が広いため、咬み合せなどの、他からの力学的要素を受けて偏位を起こし易いのです。ひとたび偏位を起こすと、その位置は記憶されますので、顎は咬み合せ優先の動きになってしまいます。たとえば、左の咬み合せ(咬合高径)が低く、アゴが左にずれている方であれば、左の顎関節は常に圧を受け続けることになります。その結果、関節頭は関節窩の内側後上方に押し込められ、もう一方の右関節頭は、反対に引き出された格好になります(図Ⅱ)。下顎骨全体を左に捻ったままで動かし続けるということは、自転車にたとえて言うと、ハンドルを左に切ったまま真っ直ぐに走ろうとしているような体の使い方をしていることになるのです。
“顎が痛い”という症状や“音がする”といった自覚症状は、多くの場合、ハンドルを切った側に起ります。それは、ハンドルを切った側の関節頭が押し込まれ、血管や神経が集まっている場所を圧迫したり、関節円板がずれたりするからです。しかし、だからといって、患側か原因側なのではありません。患側における顎関節の機能不全は、過度な圧力を受け取らざるを得ない状況に“受動的に”なっていることの結果であって、原因は、そのような圧迫を起こさせている、他からの力学的要素の中にあります。ですから、顎関節症の治療は、咬み合せを始めとして、アゴをずらしている要因を、怪我や手術などの全身の経歴も含めて洗い出し、それぞれの影響を改善して、力学バランスを再構築してゆくことにあります。
耳の前に、そっと指を触れてみて下さい。アゴの狂いが無い方では、大きく口を開けた時、その指先には、関節頭が、放り出されるような動きとして左右均等に感じられるはずです。治療によって、その動きを回復した方を見ていると、思い切り大きく口が開けられるということは、人の心に、開放感と安心感を与えてくれるようです。